少し前になるが、滋賀県立近代美術館で開催中の『チェブラーシカとロシア・アニメーションの作家たち』を観た。特にチェブラーシカ・ファンというわけではなく、どちらかというとこの美術館や周辺の公園、茶室、図書館が好きで時々通っているからなのだけれど、ロシア人のチェブ愛の深さやアニメにかける情熱を知る、いい機会となった。
チェブラーシカのアニメ版を撮ったロマン・カチャーノフ監督によれば、チェブラーシカは友好のシンボル、いわば「仲良し大使」なのだそうだ。また、チェブラーシカの意味は、「ぐらぐらしていてすぐに倒れる人」。英語の"topple"(ぐらつく)に相当することから、当初英語版では「Topple」という名前だったらしい。
今週はプロジェクトを一つ成功させて晴々した表情のh design worksさんと、京都国立近代美術館で開催中の『KATAGAMI Style:世界が恋した日本のデザイン』を観た。優れたデザインから受けるインパクトに加え、インテリア・デザイナーとしての彼女の専門的視点はとてもためになった。
あまりの暑さに鑑賞後は二人でカフェに駆け込み、貪るようにかき氷を食べた。ランチに連れて行ってもらった岡崎公園近くのオステリア・オギノのアイスコーヒーも絶品だったなあ。
『チェブラーシカとロシア・アニメーションの作家たち』@滋賀県立近代美術館: http://www.shiga-kinbi.jp/?p=16168
『KATAGAMI Style』@京都国立近代美術館:
http://katagami.exhn.jp/outline/index2.html
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「おい、行くぞ」「暑いから、もうちょっと」 |
この週末は茶会をしながら京都文化を考察する集まり(タイトルはそのイベント名)に紛れ込み、出町柳や一乗寺の雰囲気ある街並みを散策した。
途中やむを得ず、若いメンバーたちの後ろから鴨川の飛び石を飛んで渡った(ここで落ちたら洒落にならない)。叡山電車の一乗寺駅で降り、恵文社で文房具やアクセサリーやカバンを、また途中のアンティークショップで緑がかったびいどろの一輪挿しを買い求めた。
「京都や中崎町のオサレなカフェでまったりする」ことにどこか相容れないものを感じ、「しゃららら系」と呼んで人知れず一線を画してきた自分だが、歳を取ってきたせいか、だんだん人の価値観を批判することに抵抗を感じるようになってきた。いいじゃないか、オサレでも。おいでやす、京都。カフェめぐりのどこが悪い。
自分の周りには、昔からなぜかこの「しゃららら系」の人が集まってくるのが不思議でたまらなかった。しかも彼らは、こちらを同好の士と見ているふしさえあるのだ。
ひょっとして、自分も本当は「しゃららら系」?それを自分嫌さから、素直に受け入れられなかっただけだったとしたら・・・。
帰りの電車を待ちながら、ひとりそんなことを考えていた。
最近の自分のドタバタは、優雅な生活とは程遠い。親からは、「何事もほどほどにしておきなさい」と口を酸っぱくして言われている。朝はできるかぎり早くから、晩は目を開けていられなくなるぎりぎりまで、とにかく起きていたいのだ。やりたいことがあるから。
優雅ではないが、これが自分なりのliving wellなのかもしれない、"living life to the fullest(最もフルに生きる=精一杯生きる)"って言うしね、などとひとりごちてみる。
なぜ優雅さにこだわるかというと、愛読書の一つに『優雅な生活が最高の復讐である(C・トムキンズ著、新潮文庫)』というタイトルの本があり、これがいつのまにか座右の銘のようになっているためである。
背表紙には、「あのフィッツジェラルドが憧れ、『夜はやさし』のモデルにしたという画家ジェラルドとセーラのマーフィー夫妻。1920~30年代の文化人たちの群像を浮き彫りにしたノンフィクションの名著(一部略)」と書かれている。フィッツジェラルドとは、もちろんあの『華麗なるギャツビー』の作者のことだ。
芸術に造詣が深く、人柄やウィットにも恵まれた上流階級者マーフィー夫妻は、フランスでそれは優雅な生活を送っていた。しかし後半、ドル大暴落後の長い不況時代に突入するや否や、次々と不幸が降りかかる。子供も、3人のうち2人までも短期間のうちに亡くしてしまう。
しかし、マーフィー夫妻はめげなかった。「夢の家の屋根が美しい居間に崩れ落ちてきたとき、最高に勇敢だった」。
復讐とは、おそらくこの過酷な人生への復讐を意味するのだろうが、優雅に生きることでなされる復讐は、苦しい時ほどインパクトが大きいということを本書から学んだ。忙しい時、焦り不安な時なども同様かと思う。
KAKiブログも更新しました↓
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