2012年9月26日水曜日

免疫の秋




昨日は久々に阪大他主催のアートエリアB1で、「サイエンスカフェ・オンザエッジ10 ~ノーベル賞でたどる免疫学の歴史~」を聴講した。


免疫学は以前から特に興味のある分野の一つで、昔たまたま目にした免疫関連の専門用語が、「大食細胞」だの「キラー細胞」だのと何となく面白そうだったので医学翻訳をやり始めたといっても過言ではない。

そのようにして踏み出した一歩を決定づけたのが、優れた免疫学者にして文筆家だった故・多田富雄の『免疫の意味論』(青土社)。こんなに読ませる医学書は他にないというぐらい、文章がうまく、分かりやすい。読者はまるで千夜一夜物語でも読んでいるかのように、めくるめく免疫の世界に引き込まれ、魅了される。人間の身体は神の神殿とはよく言ったものだが、免疫はまさしくその御業。「免疫=神」なのである。

ところでこのアートエリアB1、色々面白い試みをやっていて、自分もこれまで編み物カフェ、参加者による自主映画の制作、問題作『精神』の上映&討論会、哲学カフェなど、10回近く参加してきた。

この秋も色んなイベントが開催される予定だが、他にも多々行きたいところがあり、なかなか参加できそうもない。1年前に見学に行ったきり、ずっと棚上げにしていた美術教室にも来週から通い始めることだし、秋大好き人間はこの時期、異様に活発化するのだ。

2012年9月18日火曜日

まっきーのヨイトマケ




  
ほぼ同い年の槇原敬之がデビューした時は激しく嫌悪した。大学のゆるいイベント・サークルに必ずいそうなタイプ。それがひたすらストレートに、フラットに、「どんな時もー、どんな時もー」としつこく繰り返す。

自分が苦手ということは、時代の主流ということに違いない。実際、彼のこのデビュー曲はトレンディー・ドラマの主題歌にまでなって、どんな時もどんな時もついてきた。  

あれから20余年。美輪明宏が作詞作曲したものを彼が歌って現代に甦らせた『ヨイトマケの唄』を好んで聴いている。美輪版を聴くと内臓がでんぐりがえって死にそうになるが、まっきー版ならさらっと聴ける。感動して流す涙もさらさらしている。自分もよく、母ちゃんの働くとこ見たもんなあ。

許容範囲が広がるということだけでも、歳を取るのはいいもんだ。
 
* * * *
 

ヨイトマケの唄 by 美輪明宏
 

父ちゃんのためなら エンヤコラ
母ちゃんのためなら エンヤコラ
 

今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
工事現場の ひるやすみ
たばこふかして 目を閉じりゃ
聞こえてくるよ あの唄が
働く土方の あの唄が
貧しい土方の あの唄が

子供の頃に 小学校で

ヨイトマケの子供 きたない子供と
いじめぬかれて はやされて
くやし涙に くれながら
泣いて帰った 道すがら
母ちゃんの働く とこを見た
母ちゃんの働く とこを見た

姉さんかむりで 泥にまみれて

日に灼けながら 汗を流して
男にまじって 網を引き
天にむかって 声をあげて
力の限りに うたってた
母ちゃんの働く とこを見た
母ちゃんの働く とこを見た

慰めてもらおう 抱いてもらおうと

息をはずませ 帰ってはきたが
母ちゃんの姿 見たときに
泣いた涙も 忘れはて
帰って行ったよ 学校へ
勉強するよと 云いながら
勉強するよと 云いながら

あれから何年 たった事だろう

高校も出たし 大学も出た
今じゃ機械の 世の中で
おまけに僕は エンジニア
苦労苦労で 死んでった
母ちゃん見てくれ この姿
母ちゃん見てくれ この姿

何度か僕も グレかけたけど

やくざな道は ふまずにすんだ
どんなきれいな 唄よりも
どんなきれいな 声よりも
僕をはげまし 慰めた
母ちゃんの唄こそ 世界一
母ちゃんの唄こそ 世界一

今も聞こえる ヨイトマケの唄

今も聞こえる あの子守唄
 

父ちゃんのためなら エンヤコラ
子供のためなら エンヤコラ

* * * *

 

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「作品紹介2012年9月20日」
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2012年8月31日金曜日

KISSの『ベス』にみる男女のすれ違い






















ヘヴィメタルやハードロック・グループのアルバムにはバラードの名曲が入っていることが多い。KISSの『ベス』もそんな一曲。 

こないだpodcastで70年代ロックを選んだら、「やあ、これはクラシック・ロックのチャンネルだよ!」というMCの後にこの曲がかかり、久々に聴いた。そうか、70年代ロックはもはやクラシックなのか。

* * * *
 

Beth by KISS

Beth, I hear you callin'
But I can't come home right now
Me and the boys are playin'
And we just can't find the sound


Just a few more hours
And I'll be right home to you
I think I hear them callin'
Oh, Beth what can I do
Beth what can I do


You say you feel so empty
That our house just ain't a home

And I'm always somewhere else
And you're always there alone


Just a few more hours
And I'll be right home to you
I think I hear them callin'
Oh, Beth what can I do
Beth what can I do


Beth, I know you're lonely
And I hope you'll be alright
'Cause me and the boys will be playin'
All night


ベス、また君から電話がかかってきた
でもまだうちには帰れないよ
こっちは曲づくりの真っ最中で、
しかもなかなかまとまらないんだ


あと数時間きっと帰るから
ああ、連中が呼んでいる
ベス、俺はどうすりゃいい?
一体どうすりゃいいんだ?


虚しいのと君は言う 
うちは家庭らしくないからと
俺はいつも出かけていて
君はいつも家にひとりぼっち
 

あと数時間できっと帰るから
ああ、連中が呼んでいる
ベス、俺はどうすりゃいい?
一体どうすりゃいいんだ?


ベス、君が寂しいのはわかっている
頼むから機嫌よくしていてくれ
だって俺たちはどうせまた

一晩中演るだろうから
 

* * * *
 

曲調も切ないが、男女の典型的なすれ違いを歌い上げた内容も切ない。女からすると、最後のフレーズは男の勝手さを実によく表しているように思える。

そういや、Freeの『Woman』という曲でも、「俺のもの、全てお前にやろう。ギター以外はね。あと、クルマも」というくだりがあるが、曲調がハードボイルドでかっこいいだけに、いつもここを聴くたび、なんじゃそりゃ、とちょっと笑ってしまう。もう、男ってやつは!

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2012年8月25日土曜日

フランクルの『夜と霧』






















先日、たまたまNHKの番組(100分de名著:Eテレ毎週水曜日11:00~11:25)で高名な精神医フランクルのベストセラー、『夜と霧』が取り上げられていたので、思わず見入った。

この本はかなり昔、いわゆる「アウシュビッツもの」を読むのが辛すぎてダメだった時期に、一度手に取りながらも書棚に戻した記憶がある。

でも今回はぴんと来たので、即座にアマゾンに注文した。数日後、ちょうどそれを読み終わる頃には、ルシ夫が申し合わせたように同番組のテキストを買ってきた。

そんなわけで、ここ最近はフランクルの思想にどっぷり浸かっている。

『心理学者、強制収容所を体験する Ein Psycholog Erlebt das Konzentrationslager 』という原題のこの本は、ナチス収容所での体験を内側から見た貴重なドキュメンタリーだが、その内容は決して専門的、あるいはジャーナリスティックなものではない。

「言語を絶する感動」と評され、新訳者をして「そこにうねる崇高とも言うべき思念の高潮に持ち上げられ、人間性の未聞の高みを垣間見た思いがした」と言わしめたように、テーマは普遍的である。人間の偉大と悲惨をあますところなく描きながら、読後に一生分の希望をもたらす。

こんないい本に出会えて、今年はなんていい年なんだ(どうりで色々と悩み深いと思った)。しかもまだあと4か月も残っている。ちなみに、「100分de名著」のフランクル特集もまだあと1回残っている↓ 

NHK「100分de名著」8月の名著:
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/14_frankl/index.html#box04

2012年8月16日木曜日

魚肉ソーセージの呪い



Fish Sausage Man











 





昔から魚肉ソーセージというものが苦手だった。かまぼこのような練りものなのに一見ウィンナーという、訳の分からない位置づけ。空腹であればそれなりに美味しいが、そうでない時は平凡すぎて見向きもしない。 

しかも、どうやって開けろというのか。見よ、この取りつく島のない、厳しく完結したデザインを。どこにも開封口はなく、そこに導くヒントさえ見当たらない。これを給食に出された日には、どんなに育ちのいい子どもでも野生児のように丸ごと口にくわえこみ、先端を犬歯か奥歯に挟んでぎりぎりと捻じり切るしかなかった。この蛮行によって、私たちの歯の健康は大きく損なわれた(かもしれない)。


 


消費者団体からの強い批判を受け(たかもしれない)、いつの頃からか、先端近くに小さな開封用のテープが貼られるようになった。私は喜んだ。これでやっと魚肉ソーセージ開封という苦行から解放される。 

成人した私は、「奥歯ぎりぎり捻じり切り」による自己のイメージダウンを嫌い、もっぱらキッチンばさみを使用するようになっていた。中央の縦線を残して先端を切り、それを指に挟んでつつーっと下まで、いわばバナナの皮を剥くような要領で。

もとはと言えば、この縦線が問題なのだ。この強靭な接合部は、素手では決して破れないばかりか、ひどい場合は中身まで巻き込み、ぐちゃぐちゃになったりぽっきり折れることもしばしば。最初からキッチンばさみですぱっと縦に切り込んだ方が早いのだ。ただ、「手軽なおやつ」にここまで手間暇をかけていいのだろうか、という疑問が罪悪感となり、心をじわじわと蝕んでいく。

平成以降の新デザインによって、魚肉ソーセージは真の「手軽なおやつ」となり得るか。私は期待に胸を膨らませながら、小さな赤いテープをぐいと引っ張った。テープは簡単に取れた。

・・・・・・・・・
・・・で?

見るとテープの下には、小さな横の切り込みがあるばかり。この切り込みを、一体どうしろと?

しばらくしてから、私はよろよろとキッチンばさみを取りに行った。

p.s. 誰か魚肉ソーセージのいい開封方法を知っていたら教えてください。

2012年7月28日土曜日

チェブラーシカとKATAGAMI Style展




















 


少し前になるが、滋賀県立近代美術館で開催中の『チェブラーシカとロシア・アニメーションの作家たち』を観た。特にチェブラーシカ・ファンというわけではなく、どちらかというとこの美術館や周辺の公園、茶室、図書館が好きで時々通っているからなのだけれど、ロシア人のチェブ愛の深さやアニメにかける情熱を知る、いい機会となった。

チェブラーシカのアニメ版を撮ったロマン・カチャーノフ監督によれば、チェブラーシカは友好のシンボル、いわば「仲良し大使」なのだそうだ。また、チェブラーシカの意味は、「ぐらぐらしていてすぐに倒れる人」。英語の"topple"(ぐらつく)に相当することから、当初英語版では「Topple」という名前だったらしい。

今週はプロジェクトを一つ成功させて晴々した表情のh design worksさんと、京都国立近代美術館で開催中の『KATAGAMI Style:世界が恋した日本のデザイン』を観た。優れたデザインから受けるインパクトに加え、インテリア・デザイナーとしての彼女の専門的視点はとてもためになった。

あまりの暑さに鑑賞後は二人でカフェに駆け込み、貪るようにかき氷を食べた。ランチに連れて行ってもらった岡崎公園近くのオステリア・オギノのアイスコーヒーも絶品だったなあ。

『チェブラーシカとロシア・アニメーションの作家たち』@滋賀県立近代美術館: http://www.shiga-kinbi.jp/?p=16168

『KATAGAMI Style』@京都国立近代美術館:
http://katagami.exhn.jp/outline/index2.html

2012年7月5日木曜日

優雅な生活が最高の復讐である















 


最近の自分のドタバタは、優雅な生活とは程遠い。親からは、「何事もほどほどにしておきなさい」と口を酸っぱくして言われている。朝はできるかぎり早くから、晩は目を開けていられなくなるぎりぎりまで、とにかく起きていたいのだ。やりたいことがあるから。

優雅ではないが、これが自分なりのliving wellなのかもしれない、"living life to the fullest(最もフルに生きる=精一杯生きる)"って言うしね、などとひとりごちてみる。

なぜ優雅さにこだわるかというと、愛読書の一つに『優雅な生活が最高の復讐である(C・トムキンズ著、新潮文庫)』というタイトルの本があり、これがいつのまにか座右の銘のようになっているためである。

背表紙には、「あのフィッツジェラルドが憧れ、『夜はやさし』のモデルにしたという画家ジェラルドとセーラのマーフィー夫妻。1920~30年代の文化人たちの群像を浮き彫りにしたノンフィクションの名著(一部略)」と書かれている。フィッツジェラルドとは、もちろんあの『華麗なるギャツビー』の作者のことだ。

芸術に造詣が深く、人柄やウィットにも恵まれた上流階級者マーフィー夫妻は、フランスでそれは優雅な生活を送っていた。しかし後半、ドル大暴落後の長い不況時代に突入するや否や、次々と不幸が降りかかる。子供も、3人のうち2人までも短期間のうちに亡くしてしまう。

しかし、マーフィー夫妻はめげなかった。「夢の家の屋根が美しい居間に崩れ落ちてきたとき、最高に勇敢だった」。

復讐とは、おそらくこの過酷な人生への復讐を意味するのだろうが、優雅に生きることでなされる復讐は、苦しい時ほどインパクトが大きいということを本書から学んだ。忙しい時、焦り不安な時なども同様かと思う。


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